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Author:愛豊玉
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出口王仁三郎の遺言―魂を正す裏五ヶ条

私は旧ブログのころから、
時々載せていた、あることがございます。
それは、心と魂を修正・補正する五ヶ条でございます。

修正の五ヶ条はいろんな方がブログなどで紹介し、
広まっているようですが、
補正の五ヶ条は、私しか公開していない情報で、
まだ、誰にも信じられておらず、埋もれた状態です。

補正の五ヶ条は、私が独自に考え出したものではございません。
この補正の五ヶ条は、
神様が私に降ろしてくださったものです。

多くの人は、“○○神の神示”“天使○○のメッセージ”
といった、目立つ看板に惹かれ、集まり、盲信し、
その本質を見ようとしないところがあります。
それも、わざわざ“看板”を目安に、
信用できるかどうかを判断しているところもございます。

私の本意は、どこの誰がこう言っているから、といった、
派手な看板をできるだけ出したくはなく、
読む人の先入観、固定観念をなくして、
素直に心で受け取ってほしいという思いから
なにも前置きせず、公開してきました。

しかし、時がせまり、
私に残された時間も少なくなってまいりましたので、
この際ですから、
真実をお伝えすることにいたしました。

そもそもこの修正・補正のそれぞれ五ヶ条は、艮大神様が、
「霊界物語」で知る人ぞ知る、
出口王仁三郎さんにお伝えになった神の理です。

五ヶ条のことは、神様のメッセージであるとともに、
出口王仁三郎さんの遺言でもあるのです。

出口王仁三郎さんは亡くなる前、
「死ぬ前にこれだけは伝えておかねば」という何かがあり、
それは、家族や親しい人がどんなに探しても、
見つけることはできず、
「アレはワシにしかわからん」とおっしゃっていたものですが、
とうとう、それを表に出すことはできないまま、
お亡くなりになったのです。

王仁三郎さんが最後にどうしても遺しておきたかったこと、
それは、“裏”の五ヶ条だったのです。

ひふみ神示にもそれとなく記され、
ご存知の方も多いのは“表”の五ヶ条です。

《表》修正の五ヶ条

信念=省みる
理性=恥じる
思考=悔いる
感情=畏れる
知性=覚る(さとる)

《裏》補正の五ヶ条

直霊=測る
荒魂=慎む
和魂=恕す(ゆるす)
幸魂=足知
奇魂=心眼

裏の五ヶ条は、表の五ヶ条のようには、
なかなかできるものではないでしょう。
己の我が強ければ強いほど、難しいことです。
「恕す」なんてこと、できるだろうか。と、
そう感じている時点で、
すでにそれがあなたに足りない働きであるということですね。

修正の五ヶ条は、「心」に働きかけ、
表層の想念に作用し、
厳密には心を正すものです。
補正の五ヶ条は、「魂」に働きかけ、
意識に直接作用するものです。
ですので、表の五ヶ条は、一霊四魂でなく、
あえて「心」の一念四心に配当してみました。

どうですか。
理性に働きかける「恥じる」心。
しっくりくると思いませんか。

修正の五ヶ条は、心を清め、正すのです。

「畏れる」とは、神を怖がりなさい、
という意味ではありません。
目に見えない大いなる存在、そして何よりも、
この地球上のすべての自然、万物に対して、
“畏れ敬う”心のことです。
感情が先走り、“我”が過ぎると、
冷静になって己を見つめることができなくなり、
自らの“目覚め”“覚醒”“自覚”から遠ざけてしまいます。
「覚る」とは、
自分以外の何かに対し、物分かりが良いことではありません。
己を見つめ、自分の本質に気づくことです。

直霊(ナオヒ)は四魂に囲まれた真中にあり、
これはあなたの「命」そのものでもあります。
あなたに命を吹き込んだ神の分霊が直霊なのです。
直霊には「測る」です。
自分のことは棚上げし、人を自分のものさしで測るのではなく、
“己”を見つめ、自分自身を冷静に測ることができ、
身の丈に合った行いを実行できることです。

荒魂(アラミタマ)は勇気や実行力の働きです。
荒魂が闇側に傾くと「争魂(アラシタマ)」となります。
この荒魂の働きが強くなりすぎると、
攻撃的、暴力的になってしまいます。
攻撃的、とは、人に暴力をふるうことに限りません。
自分の我を通し人を責め、裁く行いや、言葉の暴力もありますね。
それには「慎む」ができることなのです。
さあ、己を省みてください。
自分の意見を通さんと、必要以上に人を責めませんでしたか。
その意見が正しいか間違いかは関係ないのです。
行いそのものが、人を攻撃するものになっていませんでしたか。
何事も“加減”“引き際”というものがあります。
「慎む」ことが、できていましたか。

和魂(ニギミタマ)は人への愛心、人と人との意志疎通、です。
この和魂が正しく機能していないと、
人間関係はうまくいきません。
和魂が闇に傾くと「憎魂(ニクシタマ)」です。
「恕す」とは、
許可する意味の、事務的な“許す”とは少し意味が違います。
精神的な心の中での「ゆるし」なのです。
それは、他人に対してだけではなく、
自分自身への恕しも含まれているのです。
「恕す」とは、非なるものを是とすることではありません。
自らの負の思いを“捨てる”ことです。
その憎しみを、自分の中から“手放す”ことなのです。
例えば、なんでもかんでも“許す”よう心がけ、
仏のようになることを目指すのではなく、
非は非とした上で、「我」は手放し、割り切ることを、
自分にゆるすことでもあるのです。

奇魂(クシミタマ)は、「智」です。
奇魂が正常に働いていないと、精神が壊れてしまいます。
闇側に傾くと「狂魂(クルシタマ)」となります。
“マニュアル依存”“完璧主義”の人ほど
心の病にかかりやすいのは、これが原因です。
理屈だけですべての事柄の説明をつけようとすると、
どうしても無理が出てきます。
心の学びが少なく、知識だけたくさんあっても、
何かにぶちあたったときの、心の対処法がわからず、
精神を病んでしまうのです。
「“神の知”を己の血とするのが、真の智」です。
「心眼」とは、心の眼を開くことです。
すべての先入観を捨て去り、真素直になることです。
人の常識は神の非常識です。
心眼の目覚めを邪魔するのは、理屈への執着や、
固定観念、など、自分の「我」のほかにありません。
へりくつをこねていないで、
心で読みとる、見えないものを見ることです。
見えないものを見るというのは、霊感のことではなく、
直感で本質を見抜けることです。それが、心の眼なのです。

幸魂(サキミタマ)は自然、万物への広い愛、博愛です。
幸魂が闇側に傾くと、「逆魂(サカシタマ)」となります。
それには「足知」、“足るを知る”ことです。
これは言わずもがなでしょう。
考えてみてください。
幸魂はなぜ“幸”なのか、ということです。
これは己の心と魂の豊かさ大きさを表しているのです。
幸せとは、自分の欲求さえ満たされれば、
それが本当の幸せなのでしょうか。
自分の我が通り、あなたの思いが満たされたら、
それは利他への愛でしょうか。真だと言えるのでしょうか。
“利他を救う”という大きなことを、
いきなり目標にせよ、実行せよ、ということではないのです。
足るを知ること。
すぐそばにある小さな幸せを見つけられるようになることです。

四魂の読みですが、例えば荒魂だと「アラミタマ」
と読みますが、正式には御の字を入れ「荒御魂」とするものです。

【神性】      【獣性】
直霊(ナオヒ)    曲霊(マガヒ)
荒御魂(アラミタマ) 争謚魂(アラシタマ)
和御魂(ニギミタマ) 憎謚魂(ニクシタマ)
奇御魂(クシミタマ) 狂謚魂(クルシタマ)
幸御魂(サキミタマ) 逆謚魂(サカシタマ)

謚とは、死者へおくる、
その人の“生きざま”に基いてつける贈り名の意味です。
“○謚魂”は、こうなっては「死んだも同然」という、
神様からの厭味もこめられているのです。

一般のごく普通の人間にはこれほどまでの人は、
いないのでは?と神様にお聞きしたところ、
神様は、近頃の人間は、曲魂(マガタマ)ばかりだと
おっしゃっておられ、がっくりとしました。

まだまだ、学びが必要な人間が多いということです。
それは、地獄の根の国の中層に来る人が大変多く、
そのエリアだけ整理しないと新しい人が入れなかったくらい、
大所帯となっていることからも、うなずけることなのです。


ちなみに、出口王仁三郎さんは、
素盞鳴大神様の奇魂からの分け御魂で、
国常立大神様より命を吹き込まれお生まれになりました。

6次元で、「瑞」の霊統の御神霊です。

御神名は、【昞稘示命(アキキシのミコト)】です。


神様、そして、出口王仁三郎さんに代わりまして、
補正の五ヶ条を、お伝えさせていただきました。

もうじき、この地上には、冬の時代がおとずれます。
たいへんな世の中になっていきます。

かつて出口王仁三郎さんが、未来の地球の姿として、
おっしゃっていたことがあります。

・時速700キロの弾丸列車が地上に浮いてブーッと行く
・東京=ニューヨーク間は45分
・地球上のあらゆる地点へ行くのに3時間ですむ
・土を掘りながら地中を進む乗り物がある
・風車や羽車のような自由自在に空を飛べる乗り物がある

これらは実は、未来ではなく、「過去」のイメージです。
今から1万2千年以上前、
ムー、アトランティス大陸が沈む以前の時代は、
現代よりもずっと科学文明が発達していました。
王仁三郎さんは、その光景を視て、
未来だと思ってしまったのです。

明るい未来をイメージし、前向きに行こうとされている人々に、
水をさすようで大変申し訳ないのですが、
これからの地球では、そんな物質文明はおとずれません。
できるとしたら、幽質世界に移行したアセンション後、
つまり「ミロクの世」です。

しかし、ミロクの世に入る前に、
地球上はすっかり更地にもどしておく必要があります。
どんな人間も例外なく、一旦地球から離れますが、
それまでは、改心するまで死ねない仕組になっています。

できるならば不安をあおるようなことは、
お伝えしたくはないのですが、
真実をはっきりと伝え、
せめて、解っていただける皆さんだけでも「腹を括る」「覚悟」
ということをしておいていただきたいのです。

これよりの地上は、大変になっていきます。
大変になる前に、改心の済んでいる人は、
地球内部よりつながる世界「アガルタ」もしくは、
水星地中よりつながる世界「テラノバ」に、
“お引き上げ”となり、多くの人々が神隠しにあったように、
忽然と消え、行方がわからなくなるでしょう。

碧津の仕組がもう開いていますから、
お金の価値は無くなります。
大災害の連続で、政府も手が打てなくなり、
機能しなくなってゆきます。
政治も金もあてにならない世になったら、
世は政治と経済と人間で成り立っていると信じ切り、
それに依存している、物質主義、社会主義の人は、
まともな精神を保って生きてはいけません。
そのような世を生きぬいていかねばならない人々に、
私はできるだけのことを、できるうちに、
わかるだけのことを、可能な限り、
このブログを通して、お伝えしておきたいと考え、
一旦は終了したブログを復活させたのです。

私に残された時間は、あと少ししかありません。

これからの冬の世を生きぬいてゆくとき、
皆さんの心に留まった、この二つの五ヶ条が、
光を放つ、宝となりますよう、
光への導きとなりますよう、祈りつつ、
ここに、残しておきたいと思います。

どうか、霊性向上への道しるべとなりますように…
あなたの心の中に、刻みこんでおいてください。
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テーマ : スピリチュアル - ジャンル : 心と身体

己との戦

この終末の世にあって、
すべての人の、霊性の向上が必須ということは、
皆さんがすでに十分ご承知のことと思います。
また、それにはどうすればいいのかということも、
あらゆる方法、あらゆる人々によって、
これまでくどいほど説かれてきました。

心と魂の、掃除洗濯。

各々が、己との戦に勝ちぬくときです。
今この時は、己との戦に勝つ、最後のチャンスです。
自分が可愛いなら、己の戦に勝ってください。
真に自分を愛せずして、人に真の愛をかけられるでしょうか。
真に自分を愛せずして、人から愛されるでしょうか。
自分の光を信じられる真の自己愛と、
自分の損得と快楽を優先する利己愛とでは、非なるものです。
このまま自分との戦いを避けていては、
どんどん落ちゆくだけです。

この時期に負け越すということは、
アセンションから外されるということです。

自分を否定しないでください。
誰しも例外なく、神の光の一部であることを、
誇りに思ってください。
神を敬う気持ちが少しでもあるのなら、
その一部である自分を卑下するのは、もうやめてください。
神を信じることは、己を信じることです。

神の子として恥じない自分になりたかったら、
自分を責めるのではなく、立ち向かってください。
「自らを省みる」とは、
自分の至らぬところを責め、嘆くことではありません。

自分の中に悪玉を見つけたのなら、
抱きかかえて嘆いていては、埒が明きませんよね。
語弊があるかもしれませんが、
「責める」のではなく、「攻める」のです。
己を責めて闇を抱きこみ、悶々とするのでなく、
己を攻めて闇を蹴散らし、一掃するイメージです。

心と魂を“掃除洗濯”ですよ。
自分の中の、大片付けです。
嫌だ、面倒だといってもだれも手伝いようがありません。

汚れものは、しまい込み寄り添うものではありませんよね。
敵は、他人の中にあるのではありません。
それはその人自身で立ち向かわねばならないものです。
あなたの敵は、あなたの中にこそあるのです。

他者からのほどこしを受けても、
一時的には楽になるかもしれませんが、応急処置のようなもので
根本的な解決には至らないでしょう。

例えば、片付け嫌いの人の汚部屋を、
プロの人がピカピカにしてあげても
しばらく経つと、またもとのように散らかしてますよね。
本人が本気を出し、
自分で自分の、セルフクリーニングの習慣をつけなければ、
本当の意味での解決にならないのです。

自分の心の中が、“汚部屋”状態になる前に、
意を決し手を打ってください。
汚れっぷりが大きいほど、
一筋縄ではいきませんし、それなりの覚悟がいりますね。

“自分”に立ち向い攻め、「己との戦」に勝ってこそ
新たなステージが見えてくるのです。

戦に勝つには、どうしますか。
不満愚痴を言っていても進展はありません。
もたもたしている間に、侵略されてしまいますよ。

腹を括り、“攻める”ことでしょう。
自分の縦中心、下から上に、
スラリと“破邪の剣”を打ち立ててください。

さあ、あなたはどう攻めますか。
計画派ですか、それとも、ぶっつけ本番ですか。
あなたの中の悪玉を、どう蹴散らしますか。
己との戦に勝ってこそ、自分の大改革=改心となるのです。

勇気を出して下さい。
皆さんなら、できますよ。

テーマ : 心に響く言葉・メッセージ - ジャンル : 心と身体

すべての基本のキ―霊主心属体従の理解

例えば、高次の御魂をもって降りている、
ある立派な方がおられるとします。
その方は、神どころか天使やアセンテッドマスター、仏など、
6次元以上の存在と交信することができません。
霊存在や宇宙人、4~5次元の神霊と対話するのが関の山です。
しかし、普通の人間でも、
5~6次元の天使と交信できる人たちがいることを、
私はよく知っています。
そういう人たちが、私は大好きです。
本人たちは気づいていないでしょうけれども、
そういった人たちは、神々に愛でられているのです。
対して、立派な御魂をもっているにもかかわらず、
自らの力を生かせていない人には、
神は、それはそれは大変厳しい目で見ておられます。

普通の人間より立派な御魂を持ちながら、
6次元以上の存在と交信できない人と、
普通の人間なのに天使と交信できる人たちと、
その差はいったいなんなのだろう。と疑問がわきました。
天使と話せる人とそうでない人の違いはなんだろう。
その疑問を、ウリエルに聞いてみました。すると、
「基本が解っていないからだ。」との応えだったのです。
それは天使と話せる普通の人や私でも当たり前にわかっていて、
高次と話せない人にはわかっていないことだというのです。
私にしてみれば、今さら?それわかってないの?と、
驚くようなことなのだそうなのです。

「基本」とは…?
霊的基本とは、なんだろう。
私もほかの普通の人も当然のようにわかりきっていて、
わかっているだけでなくできていて、
立派な御魂の人でもできているとは限らない、
基本中の基本とは…?

しばらく考えて、事代主の尊様に、
思いついたことを問うてみました。
すると一二三のことでも陰陽のことでもありませんでした。
再び考え、フッとひらめいたのが、
「霊主体従」「霊主心属体従」でした。
そしてこれが、正解だったのです。
これはウリエルもサンダルフォンも、同じ応えでした。
正統な神霊は何もかも親切に答えを教えてくれません。
答えを導き出すのは自分自身です。
私がこれと気づいたら答え合わせしてもらうだけなのです。
自分で気づき得なければ意味がないからです。
こうしてここで綴っていることも、
神霊から云われたままではなく、
自分で導きだしたからこそ語れることなのです。

しかし、高次元から降りているような立派な方だと、
それなりの霊性をもっているから高次なわけで、
今さら霊主体従をわかっていないなんてことが、あるだろうか。
とすぐに別の疑問がわきました。
実は、意識ではちゃんとわかっているけれども、
「人」としてこの現実界に在る状態で、伴っておらず、
“心主霊属体従”になってしまっているのです。
つまり、自分の中のどこかではわかっており、
知識としてはすでに得ていて、
人にもそれを説いているにもかかわらず、
自分は生かせていないということです。

過去、神示を降ろした方々に自動書記が多いのは、
いくら霊格が高くても、基本がなっておらず、
高次の神霊の言葉を受け取ることができない、あるいは
そのような器があっても神の意図で封じられているため、
そうするよりほかに方法がなかったからです。

これは一般の「体主霊従」になっている人にも言えることです。
“高次とつながるにはどうしたらいいか”
といったことをよく聞かれますが、
この「基本」を人生の中で実行できているかどうかです。

本当は意識ではわかっていて、知識として心得ているのに、
実際には基本のやり方を、
少し間違えてしまっているだけなのです。

心が主になるということは、自分の真意(神意)より先に、
心のはたらきの、想念、思考、感情、理性、知性を
優先させている状態にあるということなのです。
それは、自分の間違いに気づかず、
思いこみと決めつけにつながりかねないのです。

体 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚
心 想念・理性・思考・感情・知性
霊 意識・勇・親・愛・智

世間一般には第六感のことを、
虫の知らせのような直感や霊感のように
捉えられているようですが、
ここでは少し違って参ります。

第六感とは、「心」の働きに連動するもので、
よくいう「引き寄せの法則」などもこれを活用します。
「直感」とは、第七感のことなのです。
直感は霊魂よりの自分の真の意識から湧き出るものであり、
それを真直ぐダウンロードしている状態とお考えください。

霊主心属体従の“霊”は心のさらに奥にある、
自分の魂意識のことです。
魂と心は別のもので同じ働きではありません。

勇とは、
勇気、克己心、向上心、実行力、忍耐力、外向性、勇猛果敢、
どんなに苦しくとも勇みゆく力、我利我欲に打ち勝つ力。

親とは、
親和、親愛、和合、親しむ、敬愛、友愛、親子愛、兄弟愛、
思いやり、慈しみ、人の心を慮る。

愛とは、
愛心、感謝、生成化育、万物を広く愛する心、円満具足、
作り生み育てる喜び、いかなるものにも幸せや喜びを感じる。

智とは、
智慧、知恵、気づき、悟り、直観力、観察力、理解力、
一を聞いて十を知る、創意工夫する力、アイデアやひらめき。

これらの魂の働きを、「心」の働きでどう結び解くか、です。
あなたの理性がうまく働いていなければ、
勇気が活かせず攻撃的になるのです。
思考が歪んでいれば家族や友人との関係はうまくいきません。
感情を失えば幸せや喜びを感じることができません。
知性の働きがなくば、気づきや理解力はともないません。

「霊主体従」はよく聞く言葉だと思いますが、
これを、人は霊存在の命令や指示に従うことである、と、
勘違いしてとらえている人が少なくありません。

ここで云う“霊”とは自己の魂、意識体のことです。
「霊主心属体従」とは、
わいて出る雑念をもろともせず、すぐに“掃除”でき、
魂からの真の自分の意識、“神性”の自分の意識を
曲げることなく真直ぐに表現、行いができることです。
「心」は「霊」に属するもの、体はそれに従っている、
この状態が“基本”の「霊主心属体従」です。
いわば「心」は「霊」の“通訳”なのです。

“通訳”がへっぽこだと、間違った解釈となり、
当然ながら相手に違う意味で伝わってしまいますね。
それと同様に、心(想念)が曇り歪んでいると、
霊からの意識を正しく真直ぐに現せず、
間違ったことを信じている状態となるのです。
人は「霊」の言の波を「心」が通訳し「体」で表現しています。
あくまでも“スター”は「霊」で「心」は橋渡しの役です。
心をデキる“通訳”にしたければ、自分の雑念を混ぜ込み、
“前に出たがり”の通訳でいてはかなわず、
元の真意を変えずにそのまま伝えることができません。
我を出していては通訳として失格なのです。
“我欲”を出さない、とはこういうことです。

我を出しすぎると、真は伝わりません。
我欲に流されていれば、神(真)意を受け取ることができません。
これまでくどいほどお伝えしてきたことの原因を探ると、
霊主心属体従の順を間違えているということに、辿りつくのです。

「霊主心属体従」が「基本」です。
すでに天使と交信できている人にとっては、
今さらなことかもしれませんが、
できていない人にとっては難しいことかもしれません。
理屈の上ではおわかりになっていただけたでしょうか。
頭で理解するのではなく、心で理解できねば無意味です。
よく、自分の中で噛み砕き、心と魂の栄養にしてください。

心で素直に読みとれる人は、難しい理屈がわからずとも、
誰かにうさんくさい話を教わらずとも、
自然と霊主心属体従を実行できているものです。
自分に素直になれること、自分を信じられること、
大事なことができる人は、霊主心属体従であるからです。

テーマ : スピリチュアル - ジャンル : 心と身体

怒りと悲しみの本質は悪ではない

誰しも、
とても傷つくこと、悲しいこと、
気持ちが落ち込むこと、
憤りを覚えること、怒れること、
不安になってしまうこと、
ありますよね。
このような心の状態を、
知らない、わからない、という人は、
おそらくいないでしょう。
いたとしたら、人としての心を失った獣同然です。

皆さん、よく、考えてみてください。
怒りや悲しみは、完全な悪でしょうか。
ならば大切な人を亡くして悲しむのは悪でしょうか。
怒りや悲しみが起こったら、
それは即、闇側につながるのでしょうか。

またそのような心の状態になった自分を、
責め、卑下してはいないでしょうか。

皆さん、安心してください。
神だって、怒るし、悲しむのですから。
愛あればこその、怒り悲しみがあるのです。

その思いが、どのような響きであるか、
それによって、光側か、闇側か、
感応する先が分かれるのです。

あなたが、ある出来事にとても怒りを覚えたとします。
たとえばそれは、その思いは何による怒りですか。
自分の思い通りに進まないがゆえの、
不平不満、我利我欲からですか。
それとも、困っている誰かのため、自然万物のため、
利他のためを想う怒りですか。

不平不満とは、
大抵は他人に対して生まれるケースが多いでしょう。
困っている誰かのための怒りとは、まったく非なるものです。

困っている人、傷ついている人とは、
他人のことだけでなないですよね。
自分が傷ついた時が、一番助けてほしいと思いますよね。
「なぜそんなひどいことを言うのだろう。」
と、とても悲しい思いになりますよね。
それは、必ずしも悪いことではないのです。

自分の思っていることを理解してもらえず、
悲しい想いになるまではいいのです。
それで怒りがわき、他人を陰で誹謗するとなると、
我儘です。「我」でしかありません。
「苦言」という前置きで誹謗中傷になっている人が実に多いです。
自分が悲しかったり、傷ついたりしたら、
相手にもそうなることを望むのですか。
それこそ、闇側につながる響きです。
相手の改心、幸せ、笑顔を想うならともかく、
まるで呪い返しのようではありませんか。
独りよがりな心では、光側の響きは呼応しません。

あなたが抱いている、怒り、悲しみは、
どこから来ましたか。
外から勝手にやってきましたか。
違うでしょう。
それは誰かのせいではなく、
間違いなくあなたの心から生み出されたものです。

だから、怒ったり悲しんだりするのは、
自然なことなのです。
また、そのような感情になるような出来事があったとして、
何とも思わないでいられるか、怒り悲しむか、
怒り悲しんだとして、どのような行いと出るか、
結局はあなたの自己のコントロール次第なのです。

自分の中の、真中が主人、そして側に飼い犬がいるとします。
自分の中の獣が、誰かに対して吠え噛みつかないよう、
あなたの真中は主人として、“しつけ”できていますか。
犬にひっぱられぱなしで、
犬の行きたい方しか歩けないような状態では、
己の中の「獣」「我欲」をコントロールできていないですよね。
霊主体従とは、そういうことでもあるのです。
そしてそれが己の悪を浄化することへとつながるのです。

善なる怒り悲しみであって、
あなたに非がないとするのであれば、
その状態は長くは続かないでしょう。
なぜならば、元のあなたの心と魂が清々しいのであれば、
ねちねちと引きずらないからです。

それよりも、怒りや悲しみが出た自分を、
責めたり卑下したりして、それを引きずってはいませんか。
怒り悲しむこと自体は必ず悪ではなく、
自然なことなのですから、気に病むことはないのです。
あなたが光側の住人なのであれば、
あなたは悪ではないのですから、
もっと開き直って、自信をもっていてください。
どっしりと構えていれば良いのです。
真に裏打ちされた、善なる怒りであるならば、
腹の底から怒っても良いのです。

もしも、だれかを責め非難するような行いを
してしまったとしても、
それは本当のあなたの姿ではありません。
悪のやり方に流されている自分は、
真のあなたではありません。
それはいつでも、あなたの心がけ次第で
改心することができるのです。

あなたは悪ではありません。
あなたの本質は、「光」です。
光としての自分を覚り、信じていてください。

テーマ : 心に響く言葉・メッセージ - ジャンル : 心と身体

神様の視界に映る人

神の眼に映る人間とは、大きく次の3つに分けられます。

神の光の届くところに立ち、神の光を浴び、嬉し楽しの人たち。
神の光が届くところにいるのに、背を向けている人たち。
それと、
神の光が届かないところに立ち、横を向き聞く耳をもたない人。

背を向けている人は、あとはもう、振り向くだけなのです。
振り向いてくれないと、神様は光を送る気にならないんですね。
背を向けている人たちというのは、
すでに届くところにいるんだから、背中で何かを感じているはず。
視点をちょっと変えるだけなんですよね。
向いている方向を、間違ってしまっているだけ。
「あ、こっちか!」と気づいて、くるりと振り向いてみれば、
バンバン光を受けられるようになるのです。
中には意地を張って背を向けている人もいることでしょう。
「我」は外しましょうね。

一番厄介なのは、届かないところで横を向いている人です。
自分だけの世界にはまり込んでいる人です。
本人はそれがよかれと思って、一所懸命なのですね。
外面的には自己啓発に賢明に取り組む真面目な人です。
人の眼からはそう見えます。本人もそのつもりです。けれど、
神の道からはほど遠く、はずれています。
神様は、光を送りたくとも届きません。
きっかけを与えてやりたいのに、叫んでいるのに、
神どころか指導霊も人の声も届いていない、聴こえない。
邪霊、低級霊を神霊だと思いこみ、操られ、
気づかないケースもあるでしょう。

このカテゴリーの人は「こんなに一所懸命やっているのに」
なにも見えてこない、開けてこない、報われないと
苦悩される人も多いことでしょう。
なにかきっかけをつかみ、
その視点をチラリと横に向けるだけで、見えてくるはずです。
横向きを真直ぐに方向転換できさえすれば、
光が見えてくるのです。そうなればあとは、
光の届くところまで、前進あるのみなのです。
きっかけをつかむにはやはり、
「聞く耳をもつ」「広い視野をもつ」ことでしょうか。
頑固にならず柔軟に、視点を変えて見られる器をつくることです。
これも突き詰めれば「我」であることがわかるはずです。

そしてこの神の眼に映る範囲に、
神の光の届かないところに立ち、背を向けている人、は
含まれていないんですね。
視界にすら入っていないのです。
“救いようがない”とはまさにこのことです。
ですが、このカテゴリーの人も、振り向くだけなのです。
振り向いて、遠くに光を見つけたならば、
そこに向かって真直ぐ進んでゆくだけなのです。
「気づき」というのはほんとうに大事です。

神の光の届くところに立ち、神に真直ぐに向かっている人は、
神様のエネルギーを浴び、金色に揺れる稲穂のようです。
嬉しくて、楽しくて、喜びと感謝で満たされているのです。
もちろん、生きていれば悲しいこと、腹の立つこと、
いろいろとあるでしょう。ですが、その中にあっても、
日々に幸せを見つけることができる人たちなのです。

テーマ : 心に響く言葉・メッセージ - ジャンル : 心と身体

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