例えば、高次の御魂をもって降りている、
ある立派な方がおられるとします。
その方は、神どころか天使やアセンテッドマスター、仏など、
6次元以上の存在と交信することができません。
霊存在や宇宙人、4~5次元の神霊と対話するのが関の山です。
しかし、普通の人間でも、
5~6次元の天使と交信できる人たちがいることを、
私はよく知っています。
そういう人たちが、私は大好きです。
本人たちは気づいていないでしょうけれども、
そういった人たちは、神々に愛でられているのです。
対して、立派な御魂をもっているにもかかわらず、
自らの力を生かせていない人には、
神は、それはそれは大変厳しい目で見ておられます。
普通の人間より立派な御魂を持ちながら、
6次元以上の存在と交信できない人と、
普通の人間なのに天使と交信できる人たちと、
その差はいったいなんなのだろう。と疑問がわきました。
天使と話せる人とそうでない人の違いはなんだろう。
その疑問を、ウリエルに聞いてみました。すると、
「基本が解っていないからだ。」との応えだったのです。
それは天使と話せる普通の人や私でも当たり前にわかっていて、
高次と話せない人にはわかっていないことだというのです。
私にしてみれば、今さら?それわかってないの?と、
驚くようなことなのだそうなのです。
「基本」とは…?
霊的基本とは、なんだろう。
私もほかの普通の人も当然のようにわかりきっていて、
わかっているだけでなくできていて、
立派な御魂の人でもできているとは限らない、
基本中の基本とは…?
しばらく考えて、事代主の尊様に、
思いついたことを問うてみました。
すると一二三のことでも陰陽のことでもありませんでした。
再び考え、フッとひらめいたのが、
「霊主体従」「霊主心属体従」でした。
そしてこれが、正解だったのです。
これはウリエルもサンダルフォンも、同じ応えでした。
正統な神霊は何もかも親切に答えを教えてくれません。
答えを導き出すのは自分自身です。
私がこれと気づいたら答え合わせしてもらうだけなのです。
自分で気づき得なければ意味がないからです。
こうしてここで綴っていることも、
神霊から云われたままではなく、
自分で導きだしたからこそ語れることなのです。
しかし、高次元から降りているような立派な方だと、
それなりの霊性をもっているから高次なわけで、
今さら霊主体従をわかっていないなんてことが、あるだろうか。
とすぐに別の疑問がわきました。
実は、意識ではちゃんとわかっているけれども、
「人」としてこの現実界に在る状態で、伴っておらず、
“心主霊属体従”になってしまっているのです。
つまり、自分の中のどこかではわかっており、
知識としてはすでに得ていて、
人にもそれを説いているにもかかわらず、
自分は生かせていないということです。
過去、神示を降ろした方々に自動書記が多いのは、
いくら霊格が高くても、基本がなっておらず、
高次の神霊の言葉を受け取ることができない、あるいは
そのような器があっても神の意図で封じられているため、
そうするよりほかに方法がなかったからです。
これは一般の「体主霊従」になっている人にも言えることです。
“高次とつながるにはどうしたらいいか”
といったことをよく聞かれますが、
この「基本」を人生の中で実行できているかどうかです。
本当は意識ではわかっていて、知識として心得ているのに、
実際には基本のやり方を、
少し間違えてしまっているだけなのです。
心が主になるということは、自分の真意(神意)より先に、
心のはたらきの、想念、思考、感情、理性、知性を
優先させている状態にあるということなのです。
それは、自分の間違いに気づかず、
思いこみと決めつけにつながりかねないのです。
体 視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚
心 想念・理性・思考・感情・知性
霊 意識・勇・親・愛・智
世間一般には第六感のことを、
虫の知らせのような直感や霊感のように
捉えられているようですが、
ここでは少し違って参ります。
第六感とは、「心」の働きに連動するもので、
よくいう「引き寄せの法則」などもこれを活用します。
「直感」とは、第七感のことなのです。
直感は霊魂よりの自分の真の意識から湧き出るものであり、
それを真直ぐダウンロードしている状態とお考えください。
霊主心属体従の“霊”は心のさらに奥にある、
自分の魂意識のことです。
魂と心は別のもので同じ働きではありません。
勇とは、
勇気、克己心、向上心、実行力、忍耐力、外向性、勇猛果敢、
どんなに苦しくとも勇みゆく力、我利我欲に打ち勝つ力。
親とは、
親和、親愛、和合、親しむ、敬愛、友愛、親子愛、兄弟愛、
思いやり、慈しみ、人の心を慮る。
愛とは、
愛心、感謝、生成化育、万物を広く愛する心、円満具足、
作り生み育てる喜び、いかなるものにも幸せや喜びを感じる。
智とは、
智慧、知恵、気づき、悟り、直観力、観察力、理解力、
一を聞いて十を知る、創意工夫する力、アイデアやひらめき。
これらの魂の働きを、「心」の働きでどう結び解くか、です。
あなたの理性がうまく働いていなければ、
勇気が活かせず攻撃的になるのです。
思考が歪んでいれば家族や友人との関係はうまくいきません。
感情を失えば幸せや喜びを感じることができません。
知性の働きがなくば、気づきや理解力はともないません。
「霊主体従」はよく聞く言葉だと思いますが、
これを、人は霊存在の命令や指示に従うことである、と、
勘違いしてとらえている人が少なくありません。
ここで云う“霊”とは自己の魂、意識体のことです。
「霊主心属体従」とは、
わいて出る雑念をもろともせず、すぐに“掃除”でき、
魂からの真の自分の意識、“神性”の自分の意識を
曲げることなく真直ぐに表現、行いができることです。
「心」は「霊」に属するもの、体はそれに従っている、
この状態が“基本”の「霊主心属体従」です。
いわば「心」は「霊」の“通訳”なのです。
“通訳”がへっぽこだと、間違った解釈となり、
当然ながら相手に違う意味で伝わってしまいますね。
それと同様に、心(想念)が曇り歪んでいると、
霊からの意識を正しく真直ぐに現せず、
間違ったことを信じている状態となるのです。
人は「霊」の言の波を「心」が通訳し「体」で表現しています。
あくまでも“スター”は「霊」で「心」は橋渡しの役です。
心をデキる“通訳”にしたければ、自分の雑念を混ぜ込み、
“前に出たがり”の通訳でいてはかなわず、
元の真意を変えずにそのまま伝えることができません。
我を出していては通訳として失格なのです。
“我欲”を出さない、とはこういうことです。
我を出しすぎると、真は伝わりません。
我欲に流されていれば、神(真)意を受け取ることができません。
これまでくどいほどお伝えしてきたことの原因を探ると、
霊主心属体従の順を間違えているということに、辿りつくのです。
「霊主心属体従」が「基本」です。
すでに天使と交信できている人にとっては、
今さらなことかもしれませんが、
できていない人にとっては難しいことかもしれません。
理屈の上ではおわかりになっていただけたでしょうか。
頭で理解するのではなく、心で理解できねば無意味です。
よく、自分の中で噛み砕き、心と魂の栄養にしてください。
心で素直に読みとれる人は、難しい理屈がわからずとも、
誰かにうさんくさい話を教わらずとも、
自然と霊主心属体従を実行できているものです。
自分に素直になれること、自分を信じられること、
大事なことができる人は、霊主心属体従であるからです。
テーマ : スピリチュアル - ジャンル : 心と身体